2009年11月20日
スイートロードニュースです。
今日は朝6時半起きでした。
東京足立区北千住のマルイ店で11月29日まで
アンティークウオッチフェアの準備でした。
マルイ店の中でも大型店です。
一度行って見てください。
北千住はとてもいい下町です、人情を感じるね、
小さな定食屋に入ったら驚いたね”””””こんなメニューが・・
働いてる(おばちゃん)はとても気さくで、
お客さんは殆んど年配のおじちゃん(オッチャン)達ばかり、
昼間っから酒やビールや焼酎を飲んで、けっこう盛り上がっている。
飯を食うつもりが、雰囲気で。。。
(おばちゃん、酒とサバの味噌煮とニンニクと豚の炒め物ください。)
(はーーい。サバは大きいのにしてあげるよ)
いいネ。やさしいネ。北千住は最高だネ。
足立区は俺が高校の頃まで育ったのでとても愛着がある。
町並みはだいぶ変わったが昔からの駅前の果物屋はしっかり頑張っていたね。
マルイのイベント期間中は俺も出来るだけ行きたいよ・・・・
夕方、5時頃には昔よく出入りした串揚げ屋に(立ち飲みや)俺は必ずいます。
(5時から男のグロンさん)
投稿者 sweetroad : 19:54
2009年10月28日
今日は、(スイートロード)ニュースです。

11月1日、AM11時、新しいお店が開店します。
(SX70/by/SWEETROAD)です。

35mmフイルムカメラを中心とした、ニュースタイルのショップです。
勿論、Polaroid・SX70も以前よりパワーアップしており、ポラロイドフイルムも、
心配なく皆様に楽しんで頂ける環境になっております。
スイートロードよりも、サイズは広いです。
今回の構想は2年くらい前からありました。
以前、このスペースは時計修理の職人さんを数人常駐させ、
インターネットチームも居ました。
十数年間スイートロードを支えた裏方の場所です。
1950年代~1970年代のアメリカ。。ヨーロッパ。。など等・・・・
私なりに新しい空間をイメージしてみました。
スタッフが一丸となり、頑張り、多くの職人さんの協力もありました。
また、私自身が多くの経験をさせて頂き、チョイト、だいぶ、変な、面白い、
お客様が楽しめる様な店です。ご来店心よりお待ち致しおります。。

《スイートロードのミニ歴史です!》

1993年9月吉日、、現在のお店を立ち上げました。
しかしオープンしたのは10月です。
スタートした時のメンバーは3人でしたので
1500本以上の時計を陳列するのに
(テプラ)など無い時代でしたので、手書きで値札を書き、とても大変でした。
時計以外にも当時は、てんこ盛りの雑貨が所狭しと置かれていました。
あれから17年と2ヵ月がたち、たくさんのご来店して頂いたお客様に
支えられ今日まで頑張れました。
今後とも宜しくお願い致します。
株式会社 スイートロード 代表取締役 中村昌義
投稿者 sweetroad : 20:52
2009年07月10日
昭和の時代を駆けた時計たち 。

スイートロードのサイトより
・「SWEET ROAD.COM」
・「スイートロード楽天市場店」
・「SX-70 FOREVER」(カメラ専門サイト)
・「デジタルキング」(コンバージョンレンズ専門サイト)
商品を購入されます、お客様、ありがとうございます。
インターネット上ではなかなか、お会いする機会が御座いませんので
今回はスイートロードを支えているスタッフを紹介いたします。
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安藤正
1974年(昭和49年)魚座 血液O型
スイートロードには15年いる一番の古株です。
3児の父親 最近は涙もろいようです。
日本酒を飲むとだいぶ乱れます。コンバット(戦闘)には詳しいです。
(担当)チーフマネージャー。

土肥雅明
1974年(昭和49年)魚座 血液A型
1996年入社スイートロード初の大卒者
(実際はバイトを含めると15年はいる古株です。)
基本的にモノ大好き人間。イベントをすべて仕切る特攻隊長。
(担当)ディレクター。

野村一成
1972年(昭和47年)水瓶座 血液A型
6年前に正式入社 個人的には20年以上の付き合いがある。
奥さんは昔 私のファン??
見た目はクールだが、家では料理もする優しい父親。
(担当)シヨップマネージャー。

杉田英史
1976年(昭和51年)水瓶座 血液B型
6年のバイヤー経験を経てスイートロードスタッフとして復活!
「仕事の速さ」と「飯を食う早さ」は誰にも負けない。
時計以外にもたくさんの知識を持っているので
頼れるお兄さん的存在です。

田所孝允
1979年(昭和54年)牡牛座 血液A型
平成16年(時計修理専門学校)卒業後入社、今年6年目のガンバリ屋さん。
高校生の時スイートロードにてオメガを購入した男。
入社当時はおとなしいが最近ダントツの成長株。
(担当)カメラ、プレス関係。

伊名波美穂
12月2日誕生日 射手座 血液O型
平成17年入社の今年5年目の、スイートロード初の女性スタッフ。
もと(湘南の風)の噂あり・・
時計の知識は全くなく、(もと、ハンバーガーショップの店長クラス)
スイートロードに飛び込む。いい女・・

宮下和也
1983年(昭和58年)魚座 血液A型
デザイン学校を卒業後、アルバイトのみで生活、
初の就職はスイートロード3年目。
身長180の イケメンです。恋人います。
スイートロードのインターネットを、管理、運営しています。

佐々木雅子
4月24日誕生日 牡牛座 血液A型
今年3年目の(岩手県釜石市)出身です。
魚の事はうるさい・250ccのバイクを自由自在に乗りこなす。
古着大好きな女の子です。(最近の洋服は新品・・)
彼氏募集中・・(筋肉質がタイプだそうです)。

孫 昌載
1981年(昭和56年)水瓶座 血液A型
インターネット大国からの使者
インターネット部門の助っ人外国人
画像加工のスピードと
カラオケのうまさは”天下一品”

土肥さん
1942年(昭和17年)射手座 血液O型
カメラの知識はスイートロードで一番豊富な頼れる人
とっても優しいのでカメラの事ならなんでも相談して下さい。
実は、骨董品にも詳しいですよ!

植田さん
1956年(昭和31年)魚座
古い物が大好きで、アンティークウォッチや
アンティークライターなどの知識とセンスは抜群!
スタッフブログ「アキラのこぼれ話」も絶賛掲載中!
是非、ご覧下さい。
○修理部門

鈴木(スーさん)
1946年(昭和21年)63歳 血液B型
スイートロード16年目の最古参、私とは20年以上のお付き合いです。
むかし気質の義理と人情をとても大切にする、修理の腕は超一級です。

早川さん
1948年(昭和23年)61歳 血液型O型
先代から時計店を営んでいた。東大卒の二代目です。
洒落が分かる人(さすが東大・)
スイートロードのために時計店をたたみ、修理部門で頑張っています。
子供さんは二人、昨年は”佳之君”も無事就職・・とても気配りの出来る方です。

飯塚さん
1944年(昭和19年)65歳 血液型B型
大手デパートの時計修理部門を定年前に退職、
もう8年間も頑張ってくれてる最長老です。
顔は怖いですが気のやさしい人。
一度、病気で倒れるが奇跡的に復活する、
根性男・・
以上15人の仲間たちで毎日、頑張っています。
今回の「昭和の時代を駆けた時計たち」のイベントは
私(中村)が話を切り出しスタッフ、一丸となり頑張りました。
スイートロードは1993年に川崎に店を立ち上げ16年たちました。
今後も皆様のご支援、宜しくお願い致します。。
ブログのなかでの乱文・乱言・失礼致しました。
・・遠く山口県から来てくれた中村さんありがとう御座います。
いつも仕事の合い間に来てくれる廣竹さんお世話様です。
そして、初、赤ちゃんが生まれた(女の子)杉本さん。おめでとう御座います。。。。
株式会社 スイートロード
代表取締役 中村 昌義
投稿者 sweetroad : 16:33
2009年07月09日
ザ・20世紀

ザ・20世紀
世界の紀元は1990年で20世紀は終わり、今は21世紀である、
一世紀は100年らしいから今生きてる人類は新世紀を
少なくとも経験している。
少ないと言ったのはまだ19年しか経っていないからだ。
チョット今日は(20世紀中期)にタイムスリップしてみたい。
この時代に俺は(以前にも話したが・・)
ロシアで(旧ソ連)で生まれている。
この時の記憶はうる覚えである。
家はかなり裕福だったらしく俺たち3人兄弟には執事が一人一人付いており
(兄貴の名はワロージヤ)(弟はウオフカ)(俺はウィーチャー)
俺たちの世話をしてくれた。
俺をみてくれた人の名前は記憶がない。片足がなかった事は知っていた。
よく肩車をしたり散歩に行った事は、うっすら覚えています。
日本に帰国してから、おふくろに聞いた事があった。
「あの人はどうしたの??」
おふくろは中々言いたがらなかったが
家に泥棒が来て追いかけて亡くなったらしい。。。
オヤジは俺たちに日本の名前もつけてあった。
これも後から分かるのだが
日本に無事に帰れる保証は無いので
家族がバラバラなった時に
兄弟だけは再会しやすいように名前の頭文字を
兄貴は「昌純」弟は「昌一」俺は「昌義」と命名した。。
オヤジも戦後の動乱期に外地で生まれた
俺たちの事をいろいろ考えてくれたのだろう。
俺が当時(五歳だと思う)一番記憶に残っているのは
駅舎には沢山の魚のニシンが置いてあった。
兄貴は両手にニシンを持ちトコトコ、歩き
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俺は大きな木樽をゴロゴロ転がし家まで、
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駅舎から家まではゆるやかな坂だった。
この時おふくろには、(よくやったと・・)と誉められたので
子供は(特に俺は)誉められた事は、よーく覚えているのだ。
この時代でもこれは立派な泥棒だ・・・
54年前の話だから・・判決は・・時効である。。
ザ・20世紀 パート2
・連合赤軍浅間山荘事件
長野県軽井沢で連合赤軍のメンバーたちが
管理人を人質に河合楽器浅間山荘に篭城し、警察隊が包囲した。
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警察隊が山荘の破壊作業を行い突入、連合赤軍を逮捕して人質を救出した。
日本中がテレビに釘付けとなった 俺も見た・・
この事件は後に2002年映画化されて、
スイートロードはその時代の腕時計の貸し出しに協力しました。(主演、役所広司)
その時の時計はこれです。。
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・ロッキード事件
アメリカのロッキード社が日本などの有力者に航空機の売り込みを
めぐって多額の資金をばらまいたことが暴露された。(わいろ)だね。
工作資金は約37億円という戦後最大の汚職事件となり、
”田中角栄前首相逮捕”とテレビ、新聞で大騒ぎでした。
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俺は 田中角栄さんは結構好きだったね。
政治家の中では土建屋から這い上がり話し方も、
男らしく豪快で小さい事にはあまり気にしないタイプに見えた。
酒でも一度飲みたかったよ・・
・日航機「よど号」事件
羽田発福岡行日航旅客機「よど号」が赤軍派学生ら9人によって乗っ取られた。
犯人らの要求は朝鮮民主主義人民共和国への亡命でした。
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福岡空港で一部乗客を解放した後、韓国の金浦空港に向かった。
ある政治家(名前忘れた・・)乗客全員とスチュワーデスの身代わりとなって
ピョンヤンに飛び、犯人を残して、その政治家と乗務員は帰国した。
(日本でのハイジャック第1号。)
このハイジャックの言葉が俺の耳に強烈に残り
今でも俺は飛行機に乗る時はこの言葉があたまの中を(フーッと)よぎるのだ・・
「世の中イヤな事件ばかりある訳ではない・・」
・グアムで元日本兵を救出
観光客でにぎわうグアム島の、ジャングルで、
愛知県出身の元日本兵・横井庄一さんが地元の漁民に発見された。
戦友2人はすでに死亡していた。
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日航特別機で羽田空港に到着し、出征から31年ぶりで故国の土を踏んだ。
このニュースには、ビックリ、俺には接点はないが戦争の傷跡を感じたね。
後にあの小野田少尉も発見される。
あの小野田少尉には日本人の大和(魂)を強く感じさせられた。敬礼・・・・
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・五つ子誕生
鹿児島市立病院で5つ子が誕生した。
排卵誘発剤を使っての妊娠で、5つ子は日本初。
父親はNHK政治部の三木首相の番記者。だったらしい。
全員が元気に退院したニュースは連日テレビで見ていた。
俺は、犬や猫じゃないだからそんな事あるのかと思ったが
科学の力だね。間違えた。医学だ・・
たまーに、テレビで見る事があるがそれぞれ家庭も
(家族)出来てよかったと心から思う。。
サァーこれで俺のブログは終わった・・
三週間ありがとう御座いました。
明日はスイートロードのスタッフ全員の紹介をしたいです。
それでは、「”昭和”の時代を駆けた時計たち」をお楽しみ下さい。
投稿者 sweetroad : 19:03
酒と涙と男と女 1970年代前半

俺の20代の頃はよく酒を飲んだ。
「サントリーレッド」「ハイニッカ」「アンクル トリスウイスキー\360円」

お金が無いから一番やすいウイスキーだ。
そして極め付きはあの「ホッピー」だ・よく飲んだね。。
仲間と焼肉屋 あっ(ちがうホルモン焼肉屋)
ホルモン専門の店でお客は殆んど肉体労働者。
その時代は換気扇など無く店の中は煙で真っ白・・
当時のホルモンは安っぽい皿に乗せられ箸ではつかむ事はできない。
ブヨブヨなのだ・・
手先が器用な俺でも悪戦苦闘する・
一緒に飲んでる仲間が「お前なにやってんだよ、こうだろう。」
いきなり皿を斜めにして金網にザーッと流すのだ。
また、一瞬で店の中は消火器と催涙ガスが同時に破裂した様に・・
真っ白なのだ・
出口も分からない(喰らいなのだ。)レベルの高い、ダジャレです。
とにかくこのホルモン屋に来るといつも目から”涙”が出ないことは無かった。
それからは俺たちはホッピーの空箱をテーブルにして
ガスコンロを借りて外でいつも飲んでいた
単なる通行人もこのスタイルを見て店は大繁盛・・
店のオヤジは時々 ホルモンのサービスをしてくれた。
俺の記憶でホッピーは大ジョッキで23杯飲んでいる・・
この時代はスナックとかおしゃれな居酒屋はなかった。
大衆酒場とか、BAR(酒場)だ。
ホステスも2〜3人の小さなBAR が俺は好きだった。
カウンターの壁には何十本もの洋酒が並べられ映画のシーンみたいに、
チビチビ、ウイスキーを飲むのだ。(金が無いから)・・
ある日俺はとんでもない事をするのだ(下心はあった。)
カウンターの前にいるママに
「ビールの空箱をここにおいてよ」ママは?????
当時のビールは大瓶のみで箱は20本入りだった。
そして冷えたビールを飲んでは空箱に入れる。
どんどん飲んで どんどん入れる。箱がいっぱになって
「ママ、チェックして」計算書を見る前から予想はしているので
まったく酔ってはいないのだ。
ただその時は冬だったのでとても寒かった。
(財布の中はシベリアの寒冷地状態でした。)
アッ・・女の話するの忘れてた・・

それでは、「”昭和”の時代を駆けた時計たち」をお楽しみ下さい。
投稿者 sweetroad : 18:53
2009年07月08日
今回のテーマは「フィフティーズ」 1950年代

今回のテーマは「フィフティーズ」1950年代
俺は、アメ車のポスターを今でも何百枚も持っている・・
1956年の自動車広告。当時の流行である、
翼をイメージしたテールフィンが付いている
「フィフティーズ」とは、
1950年代アメリカの古き良き時代の文化を指しています。
この当時のアメリカでは
「ジェームス・ディーン」がスクリーンを飾り
「エルヴィス・プレスリー」がロックンロールを歌い踊っていた。
当時俺のまわりでも真似してリーゼントでキメていた・・・
ラジオから流れ出すロックや映画やテレビのスターにみんな憧れていた。
俺も憧れた・・
「テールフィン」翼ようなデザインのキャデラック
ファイヤーキングやモダンなデザインの家具や建築物
ボウリングやエレキギターも流行ったね。。
カテゴリーは様々だけど
数多くの”モノ”や”文化”がこの時代に生まれたね。。
この時代の”モノ”や”文化”は、今の時代にも多大な影響を与えて
しまっているぐらい重要モノなのです。
俺の経験上この年式(1950年代)を好む人は”熱狂的”だ・・
コレクターも多い・「ジーンズのコレクター」
「オモチャのコレクター」「アロハシャツのコレクター」
1950年代の「ヴィンテージ好き」は、とにかく”モノ”にこだわります。
そんな影響もあったのか、俺もアンティーク好きになったかも知れない。
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1950年代のフォードの広告。
アメリカでは生活が豊かになり
「実用性重視」の時代から
デザイン性やアーティスティックな部分にも
目が向けられるようになった時期でした。
映画『理由なき反抗』のジェームス・ディーン。
かっこ良かったなー・・・
ジェームス・ディーンのファッションといえば
「リーゼント」に「ジーンズ」「赤いジャケット」
「エルヴィスプレスリー」も忘れてはいけません。
エルヴィスは、いろいろモノを飛び越えちゃった感じの大スターだったね。。。
映画「ブルー・ハワイ」が公開され
アロハシャツがブームになった事を記憶している。。。
フィフティーズ特徴である
ロックとカントリーが混ざり合った「ロカビリー」だ
俺もじつは12年〜13年くらいまではリーゼントで決めていました。
なぜ、やめたか?頭の前頭部の髪が後退しはじめたからだ。
今は柳屋ヘアートニックの愛用者なのだ。
60代の方には愛用者が多いと思います。
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それでは、「”昭和”の時代を駆けた時計たち」をお楽しみ下さい。
投稿者 sweetroad : 15:59
2009年07月07日
はじめて飲んだコカコーラ1950年代

俺がはじめてコカコーラを飲んだのは
1958年~1959年頃だった。
親父が”アメリカの飲み物らしいぞ”
そうかー、変わった形のビンだな・・・
色もなんか変な色だしなぁー・まっーいいっか、
飲まなきゃ親父に悪いしな。・・
飲んだ・・(グエーッ・マヅイなぁー)
何だこの変な薬みたいな味は 俺はからだ、どこも悪くないぞ、オヤジ。
なんでこんな不味いジュース俺に飲ますんだよ。
俺何か悪い事したかぇ?(いつもしていたけどネ。)殺す気か・・
この時代、俺の家には冷蔵庫がなかったからそのまま飲んだのだ。
それも真夏だよ。
かすかに覚えている(外にも出たくない日本が火事かよ、くらいの日)
小学校の同級生のお母さんが「コーラ飲みますか?」
またかよ・・心ではいらないです。
でも言えないのだ、このお母さんが超美人なのだ。”五重丸”
「よく冷えてますよ」言葉も綺麗だった。
同級生はたいした顔ではない、お母さん別にいるのかな。
恐る、恐る、飲んだ??オオッ(カッーウメェー超うめぇー)
これがあの時おやじ飲ませてくれた時と同じコーラかよ??
俺には未知の体感だ。
当時俺たち子供の中である噂があった、
ボトルの下のところに四角いくぼみと、丸いくぼみがあった。
四角は辛口、丸は甘口だと??
しかし俺にはわからなかった。
そんな事はどうでもイイのだ、飲めればイイのだ。
アメリカ人はスゴイ物を飲んでるんだ。
そして、それからは、ファンタとかスプライト、
強烈な味はドクターペッパーだ。コーラの3倍だね。
ちなみにコーラのボトルのデザインは女性の ボディーライン(上半身らしい)
間違いなくきれいだ・・・
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ところで皆知っているかい?
今の時代は自動販売機でドリンクを買うが
(自動販売機の数は知らないが、たぶん世界一だ・・・)
此処からが大事な話だ、みんなが生きるか死ぬかの問題だ・・
(自動販売機に関係おお有り)
俺たちの時代は電信柱がありそこに地番が必ずあった。
今はそれがないのだ。(都会はネ・)
もし、もしだよ
急病や事故にあったら119番なり110番に電話するよな。
(場所は何町何丁目何番地ですか?)相手は必ず聞いてくるよ。
「??会社の前」とか「???薬局の前です」と言っても助けには来てくれないゾ・・
その時は慌てずに自動販売機の下あたりを見るのだ。
必ず地番のシールが貼ってあるのだ。
誰かが倒れていたら自分の携帯で電話しながら
自動販売機を探せ、探さなくても(あわてるな・・)
目の前にあるだろう・・
平成の時代でも人に関心を持ち仲良く助け合いながら生きていきましょう。
国土交通省国土地理院と、自販機業界が警察や消防長会と連携して、
緊急時の住所地の把握のために行っているそうだ
今日の中村は今までのブログで一番いいこと言ってる。
(なんのこれしき、これも、世のため人のため自分のため、アレッ・・)
コカコーラは1886年 米国ジョージア州アトランタで
薬剤師 ジョン・S・ペンバートン博士がコカ・コーラの製造販売を始める。
1958年 日本飲料工業株式会社を日本コカ・コーラ株式会社と社名を変更した。。
一人の天才の熱意から生まれた黒い液体は、
その後1世紀以上も愛され続けるほどの完成したものであった。
それは偶然なのか、それともPenbertonの直感であったのかは今となっては知る由も無いが、
世界初のコーラであるコカ・コーラは今なお王の座に君臨し続けているのである。
参考文献:コカ・コーラ帝国の興亡/100年の商魂と生き残り戦略
マーク・ペンダグラスト 著、古賀林 幸 訳「徳間書店」
俺もコカコーラのノベルティーものはいろいろ持っているが。
今回は特別にオメガの時計を見てください。
この時代は「フラフープ」の大流行
国産プラモデル登場(飛行機、戦艦、車、)
これで俺はかなり手先が器用になったかも??
だっこちゃん人形なんてかわいいのもあった。
それでは、「”昭和”の時代を駆けた時計たち」をお楽しみ下さい。
投稿者 sweetroad : 12:23
2009年07月05日
今日はインスタントらーめん1950年代〜1960年代

俺がはじめてインスタントラーメンを食ったのは
確か1958年(昭和33年)記憶、小学校の時、近所の農家でご馳走になった。
なにか変な袋からかたい麺のかたまりだ??ん?何だ?
安いどんぶりに入れて(たぶん?)
そして やかん から熱湯をドクドクと入れてるのだ。(何だ)
なにをしてるんだ??
そしてどんぶりにふたをした。(3分待つのだ)、何を言ってるんだ。
本当にラーメンはできるのかよ。
友達の家のおやじさんもそばに(だじゃれ、ではありません)
いるので心の中で叫んでいたのだ。
このおやじさんは顔がヤクザみたいだった。(怖い感じ)
そして3分たったと思う。俺は当然時計なんて持っていない。山勘だ。。
60を3回 かぞえたかも・・・
時間よ早くすすめぇーー進めぇーー
やっとどんぶりのふたをあの怖そうなおやじさんがニヤニヤしながら取った。
オッオオォォーいいにおいがする、確かに見た目ラーメンだ。。
見たこともない、聞いた事もない、もちろん食ったこともない。
俺の目は点になっている。(食っていいぞ。)
アッ(はい)よーしいくぞ・・
うまいメチャクチャうまい。おれの口のなかは(喜びと感激とうれしさと)
なんだか心と口の中がいっぱいになった。
これがあの日清チキンラーメンだったのだ。
それからは「エースコック」「マルタイ」「明星食品」から、
スープ別添えのラーメン(これは鍋を使うのだ)
サッポロ一番(サンヨー食品)が醤油と塩味も美味かった。
ラーメン用語は差別用語撤廃から、
「支那そば」が「中華そば」、「ラーメン」に落ち着くらしい・・・
俺の記憶では35円だったと思う。
1956年(昭和31年) 東京のラーメン一杯は30円〜40円 位の記憶がある。
今の時代俺が一番おすすめのラーメン屋は、1965年創業.井上(東京・築地)です。
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60年代のお菓子インスタント
渡辺のジュースの素
「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。
憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)
(榎本健一)日本一の喜劇俳優さん
エノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っているネ。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」
とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)
3種類くらいの味があったと思いますが、
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、
袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、
唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが俺は一番おいしかった。
食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、
魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、壁際の棚に、
ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、
鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、
ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
(なつかしぃーなぁー)
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、、
かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」
(頭に手)・・・
というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、
子供心にも、
「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」
というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
こうした粉末ジュースの類としては、
他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、
井村屋のソーダラップのメロン味が俺の中では結構うまかった。。
(ジュースもどんどん進化したんだな)・・
・・・・そしてあの衝撃的な飲み物・・(コカコーラ)・・が登場するのだ・・・
この時代、俺の家は石油ストーブがはいり
家の明かりは 電球から蛍光灯にかわり
テレビでは西部劇(ララミー牧場)名犬ラッシー奥様は魔女・・
そしてこの時代の流行言葉は三種の神器
(掃除機、冷蔵庫、洗濯機)俺の家にはひとつもなかった
それでは、「”昭和”の時代を駆けた時計たち」をお楽しみ下さい。
投稿者 sweetroad : 12:30
2009年07月04日
給食と弁当1950年代〜1960年代

小学校の頃は給食だった、(今でもそうだと思う)
だが俺たちの時代には必ず出るものがあった。牛乳です。
この飲み物が不味いのだ。(脱脂粉乳)
戦後のアメリカが敗戦国の日本に対して人道的援助らしい。
子供の栄養を考えて。
背を伸ばすため動物性タンパクを与えようと
「脱脂粉乳」という粉ミルクが提供されることになりました。
この脱脂粉乳を生徒の人数分作ったものを。
給食係りが大きなアルミのバケツで教室に運び、
ヒシャクでひとりひとりのカップについでまわった。俺もやった。
俺の記憶では「大変不味い」という思い出しかない。
俺だけでなく、ほとんどの子供達が不味いといっていました何故でしょう、
最初は、アメリカから「生のままミルク」を運ぶ予定でしたが、
船で運ぶと腐ってしまうため、脱脂粉乳という粉ミルクになったらしい。
当時の製法では、不味いものしか出来ませんでした。
今だったら絶対飲みませんね。
昭和33年(1958)より牛乳が出されるようになりました。
本当の牛乳はうまかった・・
主食はコッペパン。アメリカから提供された小麦を使い、大きくて太い、
ずんぐりしたコッペパンを作ったのです。
コッペパンは日本が作り上げたオリジナルのパンです。
これに紙に包まれたマーガリンやジャムをつけて食うのだ
これはうまかったネ・・
冬、教室には鋳物でつくったストーブがあった(燃料は石炭でした。)
「おかず」と言えば思い出すのがクジラの揚げ物です。
今では口にすることはありませんが、当時は貴重なタンパク源でした。
しょうゆ味だったように記憶している。
また、魚の肝臓をゼリー状にした「肝油」と言う栄養補助食品も
あったように思います。
給食用の食器はアルミニウム製の粗末なものでした。
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中学時代になると今度は弁当だ。
この弁当で俺とおふくろとの間で毎日のように大戦争(バトル)始まるのだ。
おかずがみんな違う。入れ物もちがう。
とくに女子は可愛かったネ。
俺の弁当箱はアルミ製の(ドカベン)飯はぎゅうぎゅう詰め
これには問題は無いのだ。
問題はおかずだ。
俺のおふくろはただおかずを乗せるだけ。(美的感覚がないのだ・・)
友達等の弁当は色のバランスとか
おかずの配列とか
とにかくうまそうなのだ。
今でも鮮明に残っているのは 杉谷(同級生)が持ってくる弁当だ。
のり弁が流行ると俺ものり弁 しかしおふくろはただ海苔を乗せるだけ
(あけると海苔は弁当箱の裏側にベッタリ・・)
しかし杉谷の海苔弁は違うのだ 飯と飯の間にはさんである。
すぐおふくろに指示を出す俺・・・
すると今度は 海苔 段 段 そう海苔が二重なのだ。
(お前の家は金持ちなのか?)
今度は杉谷の海苔弁にはかつ節がふえている(ダブルトッピングだ)
味見をさせてもらう。(うまいなぁー)
すぐおふくろに新情報を報告する俺・・・
あっ、ウインナーで思い出した・・
俺のおかずのウインナーはただ焼いただけ、
杉谷のウインナーは蛸のようになっている俺はすぐに判る。
カットしているんだ。
(ちきしょう‐手がこんでるなー)お前の家は板前か??
今度は、ふりかけ、が流行る(永谷園ののりたまだ。)
ここでも杉谷と差がつくのだ。
おれのふりかけはただ飯の上にかけるだけ
(また、弁当箱の裏側にベッタリ・・)
しかし杉谷はちがうのだ
食べるときにのりたまの袋を取り出しかけるのだ。(どんなお母様なんだ??)
さらに ドンドン 毎日あいつの弁当は気になる。
俺の飯は温かい時におふくろは蓋をするので食う時は
必ず飯は、かたよって隙間ができてる。
しかし杉谷のご飯はフンワリなのだ。どう見ても美味そうなのだ・・・・
(杉谷なんでお前の飯はふんわりしているんだ。)(わからない?)だって。
すぐに聞いて来い。。
杉谷は俺の指示に従う子分だった。
次の日 報告がはいる(。ご飯が冷めてから蓋をするんだって。)
そうかぁーそんな簡単なことなんだ。
おふくろに報告すると なっ何と(自分でやれ。。)
だって飯を冷ますだけなのに
おふくろの心は冷たかった
(今日はダジャレでキメテみました。)終わり ジャン ジャン・・・・
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それでは、「”昭和”の時代を駆けた時計たち」をお楽しみ下さい。
投稿者 sweetroad : 18:01
2009年07月03日
忍者実演編と足立区のギャンブラー

子供時代に見た漫画 テレビのヒーローに俺は本当になりたかった。
忍者にはかなり知恵をふりしぼったネ・
そのへんのガキ等はただ棒きれを持って振り回すだけ・・
しかし忍者には 火遁の術 土遁の術 水遁の術・
相手が驚く騙しの技があった。
それを俺は忘れてはいないのだ。
おふくろに頼み汚いジャンバーの裏側にポケットを沢山作ってもらい、
ポケットの中には新聞紙を細かく刻み隠し必ず風上で戦う最中に相手めがけて
(エイッ)忍法紙ふぶき・・・
花火屋で仕入れた 2B (ご同輩はわかると思います)
相手めがけ投げる 爆発します。忍法火遁の術
木にあらかじめロープを吊るしておき相手を誘い寄せ
いきなりジャンプ 空中から襲う(ターザンだね)
逃げる最中にまたポケットからビー玉を出し ばらまく。
ほとんどの奴らは転んだネ。。
スタイルも風呂敷をうまく頭にかぶり でているのは目だけ・・
極めつけは 電車の通る線路に釘を沢山並べて電車が通過すると
ペッシャコ手裏剣の出来上がり・・・
ちなみに俺のジャンバーの袖はいつもテカテカだった。
鼻水が出ると袖でふいていた。(ポケットティッシュは存在していない)
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俺たちの時代はギャンブルも大流行していた
(勿論 お金は賭けないのだ、無いから)
メンコ ベーゴマ ビー玉 他にもあったと思うが
俺はこの三つにいつも燃えていたネ・・
メンコは漫画のヒーローが印刷してあり集めるのに必死だった。
一枚一枚集めていると大変だし時間もかかる。
手で地面に叩きつけるので手も疲れる。
そこで俺は考えた。
たぶん足立区では俺が最初かも????
100枚 200枚メンコを持ってる奴を探して一発勝負だ。
勝った時は天下は俺のもんだぁー
負けたときは宿題もしたくない(いつもしないけど)
友達とも会いたくない(恥ずかしいから)
飯だけは元気よく食った。
ベーゴマはブリキのバケツにビニールをひき
相手のコマを弾き出すゲームなのだ。
コマには必ず有名な人の名前が彫ってある
慎重にコマの先端をヤスリで手でコツコツとがらすのだ。
ある日 友達の家にグラインダーがあると聞いた。
グラインダーってなんだ???
オッォォォーこれはすごい・・
それからそいつの家には毎日、毎日通うのでした。
メンコは後日 大失敗がある。
数百枚たまり庭に穴を堀り隠したのだ。
雨が降る事を考えていなかったのだ。
当時のショックは今でも残っている。
それでは、「”昭和”の時代を駆けた時計たち」をお楽しみ下さい。
投稿者 sweetroad : 18:16
2009年07月02日
今日は川崎での大騒ぎ ニュース速報からです。

昨日、川崎西口にあります「川崎シンフォニーホール」に
昭和天皇のお孫さんの 皇太子徳仁親王殿下が音楽鑑賞に来られました。
この「川崎シンフォニーホール」は
日本でも有名(優秀)な音響設備が整っているそうです。
「スイートロード」から一直線で300m位です。
夕方には物凄い警備陣が 白バイ10数台
制服の警察官何人か分かりません 私服警官何人か分かりません。
空にはヘリコプター 歩道には黒山の人だかり 一般車は通行止め
スイートロードの店の前をゆっくり通りました。
スイートロードのスタッフはカメラ持ち出し大忙し。。
お客様はいたが無視状態(すみませんでした)・・・
皇太子徳仁親王殿下は 昭和35年(1960年)49歳
私と年齢も近いのでとても親近感を感じました。
49歳という年齢もあるのでしょうけど、
ここに来て風格が増してきた気がします。
雅子妃殿下の体調も良くなる傾向のようですし、
全体的に良い流れ、良い雰囲気になってきました。
私は、たまにテレビで 皇室アルバムなる番組を見ます。
とてもほのかで楽しいそうな暖かさを感じます。
ここで私 中村の昨日感じた事・・・
物凄い警備の中で移動されて音楽鑑賞は楽しまれたでしょうが
個人的、自由はないのでしょう??
コンビニで今話題の100円おにぎりとか、100円ショップのダイソー
吉野家の牛丼、とか 自由きままに電車に乗ってもう一度川崎に来て・・
アンティーク時計を見て(お買い上げ有難う御座います)
なんて感謝の言葉を伝えて、、ついでにツーショット写真をお願いしたり・・・・
アッ。現金もっていないかも知れません・・・
戦後の日本は世界に例が無い「強烈な経済成長」を遂げた。
この成長で産み落とされた公害や人間同士の道徳観の欠如、
自然破壊など負の財産も生まれたが、総じて国民は豊かになり
アメリカに次ぐ世界第二位の経済大国となった。
戦前は軍事大国化へ、戦後は経済大国化へと道は180度の対極にありながら、
昭和天皇を中心としたまさに激動の時代、それが「昭和」である。
昭和天皇崩御-
昭和64年1月7日午前6時33分、
十二指腸乳頭周囲腫瘍のため、皇居の吹上御所で崩御された。87歳だった。
これに伴い、皇太子明仁親王が直ちに皇位を継承、
125代天皇に即位し年号を「平成」とした。
今日は敬語が多いので中村は大変疲れました。。
明日からいつもように、、ヨロシク・・・・・
それでは、「”昭和”の時代を駆けた時計たち」をお楽しみ下さい。
投稿者 sweetroad : 20:42
2009年07月01日
マンガ(漫画)とテレビ(白黒)の時代

俺がガキの頃は漫画が大切な娯楽の一部だった。
1950年代~1960年代 漫画本の種類は数え切れない位??
その中でも(少年は月刊誌?)心に残ってる。
あの「黄金バット」や「鉄人28号」(横山光輝)は
今でも頭の中に残っている。

付録がやたらとオマケで付いていた。
俺は金がないから自分で買う事はなかった。
「おふくろ」が たまーに買ってくれるが
その時の付録は一人じめして
後は友達の回し読みが殆どだった。
(少年画報 月刊誌もよかった)
俺にとって漫画は学校の教科書よりもいろいろな夢を与えてくれたと思う。
(学校の本に希望は一度も感じなかった)
苦しみと テストの後の絶望感、通信簿をもらう時の恐怖感。
(ご同輩は如何でしたか???)
そしてあの『少年サンデー』に出会うのだ。
「伊賀の影丸」「おそ松くん」「カムイ外伝」「オバケのQ太郎」
など など。。。
この時代から週刊誌になる、
そして『少年マガジン』、
「巨人の星」「あしたのジョー」「エイトマン」「ハリスの旋風」。。
俺はこの時点で紹介した作品の作家さんの名前は全部言えるね。。
そして、はじめて兄貴と相談して決めるのだ・
俺たちで小遣いを出し合って漫画を買う事にした。
それが 『少年キング』なのだ。
「サイボーグ009」(石ノ森 章太郎)
「ワイルドセブン」(望月三起也)
「銀河鉄道999」(松本零士)
よく覚えている。
この頃はたしか値段は30円位だったと思う。
俺にとっては大金だったね・
この時代はテレビの置いてある家は少ないのだ。
まだまだ白黒の時代でした。
漫画(アニメ)では鉄腕アトム(手塚治虫)
「宇宙少年ソラン」「マッハGOGO」などテレビにかぶりつきだね。
そしてヒーローものが出て出て来るのだ・・
「透明人間」(声優、大平透)「月光仮面」「少年ジェット」
「ナショナルキッド」「まぼろし探偵」
そしてあの・スーパーマン・・・
”弾より速く・力は機関車より強く・高いビルもひとッ飛び”
アッあれは誰だ(そうです、スーパーマンです。)
毎回このセリフで始まったのでした。思い出すね
あの新聞記者のクラーク・ケントめがねをかけた二枚目役者でした。
親父が好きだったのは(俺も)
プロレスだ・凄かったよ・
「力道山」「吉村道明」「豊登 道春」「遠藤幸吉」
アメリカは ルー・テーズ、ブラッシー、デストロイヤー、シャープ兄弟
俺は本当のケンカをしてると思っていたネ、
親父は体を 右 左 上 下 全部動かしていた。
興奮しやすい親父??
そして俺の家に1964年カラーテレビなる物が来た。
親父は東京オリンピックをカラーで見たかったらしい・・
噂では知っていた。しかし驚いたネ。。
人の肌が肌色だよ。
赤は赤
青は青
しかし配線は白黒の時と同じ一本だよ???
チャンネルはいつも奪い合いだったよ、
しかし番組が終わり時間が来るとテレビの化粧幕はしずかに下ろした。。
この時代の流行言葉は 巨人・大鵬・たまご焼き・・
それでは、「”昭和”の時代を駆けた時計たち」をお楽しみ下さい。
投稿者 sweetroad : 19:39
2009年06月30日
1960年代~1970年代 友達の車と俺の車

俺の時代は運転免許の取り方も楽だったと思う。
今は事故とか変な運転をする奴らがいるからな。
オートバイでも今は免許が7種類あるみたいだ。
現代人は大変だよな。昔とは車の量もぜんぜんちがうしね・
1966年(昭和41年)に自動二輪免許をとる、
(16歳)オートバイは125ccのスクーター 楽勝だったよ。
教習所では教官に「運転なかなか上手いな」と言われる。
(当然だよ俺はな。。。)
「はい」、とだけ答えたと記憶がある。
無免許で散々田んぼや畑道、原っぱで練習したよ。
プロのモトクロスライダー並みだね。自信過剰。
この時代のオートバイは(バイクとは言わない)
方向指示器がランプではなくオレンジ色の羽根が右、左
付いていてボタンを押すとそいつが跳ね上がるしくみだった。
しかし教習所では同時に片手も上げて
進路変更をするのだ。今考えたら危ないよ。
この時俺はまだ高校生でした。当然オートバイは買えない。
そしてすぐ(同じ年)に今はなき軽自動車免許をとる。
(16才で四輪車に乗れる)
しかし車がないのだ。
二輪車以上に乗ったのは耕耘機(畑耕すスーパー車)と
オート三輪だけ(やはり無免許)なのだ。
しかし、この時代の俺は運がいい。。
同級生の(八百屋の息子)奴が
ナ、何とあの憧れの(俺達の中で)
『ホンダ N360』を親に買ってもらった。
ちきしょう、やるな。
俺は自転車にまたがり全力疾走、急げ、急げ。。
奴の家はけっこう離れていた。
10分~20分かよく覚えてないが やっと到着フーフー。
あっ。赤だ、赤い車だ。
イイナー、カッコイイなー。
すぐに奴の顔を見た、
この野郎。腕組みなんかしやがって
ある作戦が頭の中で
何とか、今すぐにこの車に乗って運転したい・
「お前、飛行機そばで見たことあるか?」「ない。」「俺もない」・
羽田空港までドライブ、首都高速で
(料金は当時200円俺が払ったから忘れない)
とにかくスゴイ。信号がないのだ
一度も止まらず羽田まで当然運転は全部俺がした。
(止まらないから)渋滞なし 道はガラガラでした、
この時代はグループサウンズが大流行していた。
そして俺の人生で最大の買い物が始まったのだ。
1971年なんとあのスカイラインの歴史のなかで
もっとも光輝いていたプリンスが開発した
「S20型DOHC6気筒24バルブ」を搭載した
俗に『箱スカ』と呼ばれる
『スカイラインGT』を買ってしまったのだ。
しかし手に入れるまでが大変だった。
今の時代みたいに簡単にはローンなど組めない時代でした。
いろいろ考えてあの怖い親父に頭さげて金借りるか。
キット、いい親父だよ、たぶん、信じよう。
話し方を間違えればパンチがくる事は覚悟しょう。
しかし金を借りるのは現金だよな。4~5日考えてたら
友達に銀行員がいた。すぐ呼んで相談したら
(マル専)とかのローンが組めるかもとの答えが・・・・
持つべきは友だね。
これで俺の心は決まり親父に保証人になって貰い、金は俺が払う。
よぉーし。。。
男は決めたら一直線だァー
わき目も振らずにただ突き進めぇーー
”俺は車のオーナーだぁー”
怯えながら親父に相談したら何と簡単に「イイよ」だって。
やっぱり親父は最高だぁー。。
俺も最高だぁー
しかしこの時
会社に内緒でバイト(夜の仕事)に追われ(借金返すのに、、、)
睡眠2~3時間の時も・・
ドライブよりも(乗る時間がないのだ)
洗車とワックスがけ、の時間が多かったと思う。
この時代に尾崎紀世彦の(また逢う日まで)が大ヒット・
何だあの・もみあげ・は。??
それでは、「”昭和”の時代を駆けた時計たち」をお楽しみ下さい。
投稿者 sweetroad : 19:06
2009年06月28日
子供のころの食事(俺は飯と言っていた)の話1950年代~1960年代かな。。

兄弟男三人年子 飯のときもめない訳が無い、
もめると言うより奪い合いだね。
まだ野生の動物のほうが分け合ったり助け合う気がする。
飯の量は少しでも多く、おかずはいくらかでも大きく
(数はおなじでした)
子供ながらおかずの大きさはミリ単位でも読み切ったね、
箸を動かす手と口を動かすバランスはくずれてる。
当然、口の中は大渋滞、
早く食べると 怖い親父もやさしいカーチャンもおかずを少しくれたんだ。
しかし俺には小皿やら箸やら鍋の蓋が親父の方向から飛んでくる
(食べ方がきたない。。。)トホホー
ロシアから引き上げてきた時は生活は厳しかったらしい
(俺はほとんど感じない毎日だったけど)
卵が家の食卓にあまり出なかったけどロシアから持ってきたスプーン
(これがデカイんです。)
食用油約7割、醤油3割分離しない様に慎重にゆっくりたらす、
ヤッターー(生卵完成)
熱いご飯にぶっかけ急いでかき混ぜほおばる。ウッメーー。
食文化は日本的ではなかったと思う。
小学校4年の頃はじめて同級生の家で和食なる物を食わしてもらう。
アレ。この入れ物は何だ。
味噌汁が入っていた。飲んでみる、ウメーー。
なんと初めて見るお椀だったのだ。エ、エ????これイイなー
実は家はロシアから持ってきたアルミ製の容器が
(ヘルメットの大きさでした。)味噌汁入れでした。
すぐにカーチャンにお椀を買ってくれと話すが
カーチャンは「穴があいたらネ、、、」
俺はすぐにアイスピックでブスリとやる。
当然カーチャンはお椀を買ってくれたが、
この話が約30年後位に酒を飲みながら
「あの時は嬉しかったよ」と感謝の気持ち100パーセントで話すと
「お前がやった事は知っているよ」なぜだ??
「穴のキズが新しかったよ」
トホホ、俺は自己中心だなー。
1958年(昭和33年)親父が「東京タワーに行くか。」
東京タワーてなんだ???
ま、いいか外で何か食えるゾ。
着いたよやっと。
(何だこの人、人、人 足立区民全部でもこんなにいないぞ。。)
そして大展望台へ「オゥオオオースッゲェー足立区はどこだ??」
見えない。この頃は<<光化学スモッグかも>>
親父とやっとレストランへ来た。
ヤッター。食えるぞ。なんにしょうかな(ウキウキ)。。
しかし、(すごい列だなー)
突然、親父が売店に移動する、何だ、どうした、アレ、何だ分からん。
何と親父はアンパンとコーヒ牛乳をいっぱい両手に(どうしたんだ???)
コレ食え(何ッ)5人分です。
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ここは東京タワーだぞ。。
この飯は足立区と同じだろう。。
でも親父は怖いから何もいえない俺・・・・
30年後位に親父にこの話をすると腹が減ってるからと思ったとさ、
やさしいネ親父は・・・
(子供の心考えろ。。)
それでは、「”昭和”の時代を駆けた時計たち」をお楽しみ下さい。
投稿者 sweetroad : 13:59
2009年06月27日
1960年代~1970年代 日活映画は格好ヨカッタ・

今日も映画の話です。
日本映画は「東映」「大映」「松竹」「東宝」「日活」と
大きく分けると5本柱でした。
この中では『日活映画』は俺の人生の基本を創ったかも知れない。
(チョットオーバーかな)
俳優さんも凄い!
「石原裕次郎」「小林旭」「渡哲也」「浅丘ルリ子」
「和泉雅子」「高橋英樹」「野川由美子」等など
脇を固めたのは「宍戸錠」「二谷英明」「吉永小百合」「松原智恵子」
「杉良太郎」「浜田光夫」「芦川いづみ」
そして日本のジェームスディーン赤木圭一郎さん(霧笛が俺を呼んでいる)
格好よかったネ。。
東映映画と違うところは音楽や楽器もたくさん出てくる。
とうぜん主役の裕次郎や小林旭は歌うよね
これがまた格好いいんだなーーー
東映映画は入場は普通で退場は肩が自然に右左にゆれる、歩き方も違う。
日活映画はそれが俺にはなかった。
さわやかな感じ本当の青春だね。
(遠い昔になってしまたが。まぁいいか)
この頃からレコードを集めだす。
45回転のSP盤 33回転のLP盤 歌は青春歌謡 ポップスだね・・
しかし日活も1971年(昭和46年)映画活動を終わり
日活ロマンポルノに路線変更(残念だった)。。
(ロマンポルノたまにはいったね、サングラスして)
しかし おれの好きな俳優さん達は次々と独立して銀幕へ
不死鳥のように蘇る。
スゴイ人たちだ。・
この時俺は21歳なのだ。サラリーマンにも嫌気がさし始めていた。
(この時は”ダイワハウス”でした)
『何か自分でやりたい。一匹狼でもいいかな?』と真剣に考えだした。
映画の影響は大きかったかも
そして俺がビックリしたのが勝新太郎さん。
(なんだこの人 メチャクチャだ。すごい すごい)
こんな俳優もいるんだ、世の中に逆らっているよ。
(兵隊やくざ)は楽しくそして、笑えた、面白かった。
この時代 俺はスイスメーカーのラドーグリーンホースをもっていた。
中古でしたが1日10分位時間がずれた。
質屋のおじさんから6000円位で買ったかな?
新品は3~4万はしたかもしれない??
何故か? 映画館に行くために。
(いまではこいつは俺の大切なコレクションになっている。)
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それでは、「”昭和”の時代を駆けた時計たち」をお楽しみ下さい。
投稿者 sweetroad : 11:50
2009年06月26日
1960年代~1970年代 東映映画最高・アメリカ最高ォー

今日は映画の話にします。子供の頃おふくろは年に2~3回
”シネマ館”《当時はこんな看板でした》に連れていってくれた。
1960年代この時代は最大の娯楽だったネ
たしか料金は200円ぐらいだったな。
見るものは赤穂浪士とか椿三十郎とかとにかく時代劇だね。
(三本立てだよ。。)
コンビニなんて無いから おにぎり持ってお菓子を買って
映画館で冷たいジュース買って服も着替えて髪の毛はキッチリきめて
オシャレをして ルンルンだったよ。一日遊べたネ。。
1965年《昭和40年》初めて自腹で映画館でみたのが
何と東映の「網走番外地」(高倉健)よく覚えてるね。
健さんは格好よかったね
ヤクザ映画にハマッタのはこれがキッカケだね。料金はこの時400円でした。
記憶に残るのは「昭和残侠伝」「日本侠客伝」「緋牡丹博徒」正確には
任侠映画と言われたと思う。
1970年代には仁義なき戦い(菅原文太)シリーズは全部みたね
(文太 兄い最高だったね。。。)
健さん 文太兄い 鶴田浩二 藤純子
若山富三郎 梅宮辰夫(辰ちゃん) 松方弘樹 丹波哲郎
脇役では 志賀勝 室田日出男 池部良 八名信夫
梶芽衣子(太田雅子)渡辺文雄・・・・フー
終わりそうにないね、最高だったよあの頃は。
ただこの時代の映画館には問題があった。
”トイレだ”
トイレが(当時の電気の付いた案内板には”便所”と書いてあった)臭いのだ

映画館全体が臭うのだ。水洗トイレではなかったのです。
しかし同じ東京でも銀座にいくと匂いはなく、キレイなのだ。
この頃から銀座にあこがれはじめる。
女もきれいだね、足立区とは雲泥の差があったネ。(今は足立区最高。。)
銀座で見るものは洋画だけ。邦画は見ない。銀座ではそんな気持ちにはなれない。
だって銀座だから。。たしかこの年には歩行者天国なるものが出来たと思う。
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銀座の三越の所にマクドナルドが出現。
(なんだこの食い物は)ハンバーガー聞いた事はある・
(幾らなんだ)80円(高ぇー)だってインスタントらー麺が35円だよ・
まぁいいか??
(食ってみようか、)美味い、うめぇー
映画も食い物もアメリカは最高ォーでした。。
それでは、「”昭和”の時代を駆けた時計たち」をお楽しみ下さい。
投稿者 sweetroad : 15:55
2009年06月25日
親父は神様 おふくろは女神 俺はヤッターマン・・・

今日は親父を尊敬した日心に残る《第一号》の話です。
1958年頃(昭和33年の頃)
ちっちゃな頃から悪ガキで(俺はぜんぜん思わなかったけど)
近所ではそうゆう評判だったらしい。
おふくろ(家ではカーチャンと呼ぶ)には、本当に申し訳ないと後日、
心から悪かったと思う?????
子供同士のケンカは日常茶飯事、
(ケンカは強かったネ、負けた記憶がほとんどない)相手を選んだかも。
ある日事件がおきた、子供のケンカに相手の親が出てきて俺は殴られ・・・・
親父が元気のない俺に「どうした」と聞くがなかなか言わない
(男一匹ガキ大将。)しかし”バレタ”
ここからが大変だ俺の脳裏に今でも鮮明に残っているのだ。
親父が俺を連れて相手の家まで押しかけ
「子供のケンカになぜ親が出るんだ。。。」と
相手の親をボコボコに(とにかくパンチが速い)

とうちゃん かっこいいね。この時「ハッ。」と真剣に思う
(親父だけは敵にしてはいけない。)
しかし三人兄弟では俺が一番親父には殴られている。
ハンパじゃないくらいでした。
小遣いは一週間で5円これで自転車で来る”おじさんのダンゴが一本買えた”
おじさんはいい人だった。
4円しかない時でもニッコリ笑って(いいよ・)だって。
この時代は紙芝居や、リヤカーで「バクダン屋」や「豆腐」も
自転車で行商する人が沢山いました。
小遣いは自分でも稼いだ空き缶を集めては中に小石を入れて缶を潰す。
後でバレタ・・
近所の子供を集めて腰に紐をむすんで先端には磁石をつけて歩け。歩け・
アスファルトの道はないから釘とか小さい小鉄が
磁石にピタリ、ピタリ・ピッタリ・
そして、一ヶ月ぐらい秘密の場所に隠し、
鉄くず屋のおじさんが自転車で来ると売りさばき・
天秤ハカリをしっかり見て?、そして、
子供たちを連れて駄菓子屋に一直線(俺は面倒見のいい子供の親分)
この時代は板垣退助の100円札があり正月のお年玉は楽しみだった。

それでは、「”昭和”の時代を駆けた時計たち」をお楽しみ下さい。
投稿者 sweetroad : 16:43
2009年06月24日
今日は子供時代の話をしてみたいです。

1950年ナカムラはロシア(旧ソ連)で生まれたのです。
1955年《昭和30年》に、はじめて日本の大地「舞鶴」に
着き東京の足立区に親子5人で引き上げ者の施設で3年間暮らすのです。

言葉はロシア語で生活していたので小学校の時は困る事があり
友達は少なかった記憶が残っている。(イジメられた記憶は殆どない)
しかし子供なんて3年もたてば・・・
俺は近所のガキ大将に・小学校入学前のガキはみんな俺の子分さ。
友達も増えた。しかし・・・


あと少しで学校を転校することは親には知らされていなかった。
小学校3年の時、親父が家を建てたのだ。
今で言えば3DKである。これには興奮したね。。。
子供たちの部屋がある(3人一緒だけど)引越しの日は、
嬉しくて嬉しくて飛んだね。。
この時、事件はおきたのだ。
飛びすぎて襖を体ごと突き抜けて大きな穴をあけた。
ヤバイな・・・

からだも痛いがこの時の親父のパンチは半端じゃなかった。
(子供心になぜ俺だけが殴られんだ)
この「時代」は、どこの家でも親のパンチは当たり前でした。。
この当時はテレビは勿論なく家ではラジオの音が流れていた
「一丁目一番地」とか「赤胴鈴之助」やら・・
この時、吉永小百合さんが声優とは気が付かない(子供だからネ・)

家に風呂はなく行水でした。
たまには銭湯に、壁にはデッカイ富士山の絵があり、
天井は高く、広くて湯船は大きく浅いのと深いのと、泳ぎの練習もしたね。
この時代は通貨はすべて円でした。
が、なぜか俺は10銭硬貨で紙コップが出てくる、
自動販売機(当時希少)でオレンジジュースを飲むのが楽しみ。
どこから10銭を調達したかは(記憶がない)
もし思い出しても逮捕はないよね( 時効。 時効。 )
それでは、「”昭和”の時代を駆けた時計たち」をお楽しみ下さい。
投稿者 sweetroad : 12:51
2009年06月23日
[ソ連]人類初の宇宙飛行に成功 大きなニュースでした。

しかし俺にはもっと大きなニュースがあった。
あのエレキの神様『ベンチャーズ』だ。
初めて聞く「パイプライン」「ダイヤモンドヘッド」
「朝日のあたる家」など、など・・・
あのギターの「音」まさにエレキに痺れた。
あの加山雄三さんも痺れたとさ。(エレキだからね?)
そして、次の年1966年に日本中を騒がせた、
あの『ビートルズ』が来たんだ。。
友達の中にはギターを持ってる奴らがいた。(金持ちだ)
しかし、誰もスピーカーを持っていない。4~5人で考えた事は、すごいね。。
友達の1人に銭湯の息子がいた。開店前にみんな集合して
テヶテヶテヶ(いい音だねぇーー)
当時 銭湯の料金は25円~28円位だったと思う。
ちなみに俺の家に風呂はなかった。
最初に時計を買ってもらうのは高校入学の時1965年《昭和40年》
親父に「記念に時計か万年筆、、」と言われ
迷わず時計といったネ。心の中では(勉強道具なんていらねーよ)
買ってくれたのは当時《昭和40年》、
新発売のキングセイコーセカンドモデル(ヤッター^^::**)
しかしこの時計は殆ど使わないのだ。。訳があった。。
当時ステンモデルが、15000円位??で金色が17000円
(この金額は覚えている)
なぜか興奮のあまり金色を買ってしまった。
高校生のガキがはめる訳がないね。周りの目もあるし、2.3回つけたが
いつも手を隠してた記憶がある。
ただ単純に親父が持っていたグランドセイコーの金色に憧れていただけなのだ。
当時の紙幣で一万円札は聖徳太子でした。
それでは、「”昭和”の時代を駆けた時計たち」をお楽しみ下さい。
投稿者 sweetroad : 18:16
2009年06月21日
タバコの話(現代では非国民あつかい)税金多く払っても??

今回のイベントは最初に1970年代の時計たちが紹介されています。
高度経済成長期の象徴とも言える1970年代に開催された日本万国博覧会。
日本の一大国家イベントであり、昭和の時代を代表する。
俺は当時大阪には一度も行った事がない。万博の時はテレビで三波春夫さんの
歌だけを毎日の様に聞いていた。
当時は歌謡曲番組の全盛期どこのチャンネルでもゴールデンタイムはこれだった。
私が二十歳の頃です。《昭和45年》社会的にはすべての事に責任を持つこと。
親父によく言われました。(まったく意識していませんでした)
そんな事より中学2年の時からタバコを吸っていた事をいつ話そうか・・・
悩んでいた。
親父に「酒でも飲むか?」と言われ、少し酔ったころなんとなくタバコに火をつけた時
一瞬で酔いがさめた。
しかし親父は知らん顔。。。ヨカッタァー(ドキドキ)止まらない。。。
この時代はハイライトが一番人気でした。なぜか???オッサン連中が
吸うタバコは両切りの安い「しんせい」「いこい」「ゴールデンバット」などなど、
しかし俺は2倍以上はするハイライトなのだ
そうです、こいつは、フイルター付きでした。(オシャレな感じ??)
値段は70円だった記憶です。
ちなみに親父は「いこい」か「しんせい」でした。
タバコは安物(今は悪物 はい はい )でも
この当時 親父はグランドセイコーのファーストを持っていた。
それでは、「”昭和”の時代を駆けた時計たち」をお楽しみ下さい。
投稿者 sweetroad : 13:23
2009年06月20日
第2回 昭和という時代の魅力

今回から始まる ナカムラ、ブログ楽しくやりたいです。
見た目はこんな感じですが意外と『義理人情』を大切にしています。
”古い人間だからね”
「もの」基本的に好きだね。人間が生きる為の必需品または道具。。
わかりやすく表現すると人間の五感に必要な「もの」えらそーに***
朝起きて飯食って、昼飯食って、夜飯食って人が生きるための必要なエネルギーを
補給している。
自然な事だが、食わないやつもいる、世の中、時間を逆さまに生きてる人もいる。
時間は自由に使えるからね!!
しかし、時間に逆らうことは出来ないのだ。。
一日は24時間、世界の人間、平等に与えられている。
本日はチョットかたいブログでした。 時計もたまには動かしてみたら。。。。
それでは、「”昭和”の時代を駆けた時計たち」をお楽しみ下さい。
投稿者 sweetroad : 20:12
2009年06月19日
”昭和”の時代を駆けた時計たち

日本の時計文化は古くから存在するが今回は、昭和の時代から生まれた時計たちを
皆さんご紹介したく企画いたしました。
昭和とは、1925年から始まります。
国産時計の歴史は、1881年「服部セイコー」が創業され
1930年《昭和5年》にシチズン時計が創立、
オリエント時計は1951年《昭和26年》に業界の三男坊として誕生する。
時計の歴史は掛け時計に始まり、懐中時計、腕時計に変化して来ました。
1924年にセイコーが国産初のローレルを発売し日本の腕時計の産業の文化が
始まりました。
戦後の激動の時代に日本の時計産業はスイスの巨大産業に、追いつけ追い越せと、
機械式時計の技術を小さな金属の中にある歯車群に魂を込めたのでしょう。
昭和時代の高度成長期には東京オリンピック1964年《昭和39年》、
大阪万国博覧会1970年《昭和45年》など、
世界が認める産業大国へと突き進んで大きく飛躍した時代でした。
戦後の物がない時代に時計はとても高級な贅沢品で
私の時代『子供の頃』 コッペパンが5円、ラーメンが30円
高校卒業時の初任給が12000円
グランドセイコー1963年《昭和38年》が35000円でした。
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1950年《昭和25年》生まれ 寅年 山羊座
株式会社 スイートロード
代表取締役 中村昌義
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それでは、「”昭和”の時代を駆けた時計たち」をお楽しみ下さい。
投稿者 sweetroad : 17:46
